みよう!あそぼう! SINCE1966 人が集う場、育つ場をひろげています
福島は古代から東北地方の入り口としての役割を持ち、奈良時代には蝦夷対策として県南部の白河関・沿岸部のいわきには勿来関が置かれた。平安時代になり征夷大将軍坂上田村麻呂によって東北地方が平定されると関所としての機能はなくなる。関西の人にとっては、遠く離れた東北はあこがれの地でもあり、元禄年間には松尾芭蕉も「奥の細道」の旅の途中に白河関を通ったとされる。
|
会津も又奥羽勢力に対する抑えの地。豊臣秀吉は伊達政宗から会津を没収し、家臣の蒲生氏郷を置いて東北地方の要とした。伊達→蒲生→上杉→蒲生→加藤の変遷をへて、1643年に保科正之が藩主となり幕末の松平容保まで続く。 保科正之は「家訓十五ヶ条」を作りその第一条件には「会津藩の使命は将軍を守ることである。藩主がこの家訓に反したときには、家臣は主君といえども従ってはならない」と記し武士道の精神が受け継がれていく。幕末の松平容保もこの家訓を守り、京都守護職になる。会津藩は人材育成と教育の水準は高く、上級藩士の子弟は10才を迎えると藩校・旧新館で文武両道の教えを授けた。又「什の掟」という7ヶ条の人材育成の指針があった。 戊辰戦争で、会津藩は新政府軍と戦い、会津若松城が落城するまで激戦の地となる。武家屋敷の火災を落城と取り違えて自刃した白虎隊の悲劇も起きた。 |
1876年に若松県、福島県、磐前県の3県が合併し、福島県が誕生する。1873年から不毛の原野であった郡山西部に猪苗代湖の湖水を利用する開生山一帯の開拓工事が始まり、1882年安積疎水という水路が完成。 自由民権運動において、東北の指導者として三春町出身の河野広中が知られている。1879年に全国初の県会を設置し、県議会議長となる。1882年自由党撲滅を豪語する県令・三島通庸は河野らを弾圧。住民負担の道路建設を強行し住民と対立。この時河野らも逮捕され運動は壊滅的な打撃を受ける。 |
資本主義の発展とともに工場労働者が増加。福島でも製糸工場や炭鉱・鉄道の労働者は労働条件の改善を求めて争議を行い労働運動の先駆けとなる。 高度経済成長期に入り、いわき・郡山地区が新産業都市に指定され多くの企業が進出。それと同時に大気汚染や河川の汚染などの社会問題も発生した。また、国のエネルギー政策の転換により、石炭産業は衰退。その後浜通り地方には火力発電所・原子力発電所が設置され、電力供給地帯となった。県内に水力発電所90ケ所。1996年常磐炭鉱閉山後の新しい職場として、温泉を利用してつくられたスパリゾートハワイアンズが開業。 |